「両手いっぱいの言葉」 -寺山修司- 1982年
両手いっぱいの言葉―413のアフォリズム (新潮文庫) 著者:寺山 修司 |
「愛」..『あの女はおれものだからどうか好きにならないでくれ』という仁義は、女を人間としてではなく、身のまわり品か愛玩物として考えること..(p15)
「演劇」..裸が自然態であったり、健康美であったりしたのはむしろ古代の話であり、現代では『裸ほど不健康で、異常態であるものはない』のであり、それゆえに美しくグロテスクで私の心をそそる..(37p)
「ふるさと」..少年時代から『ふるさと』の絵というのは、どうして遠景ばかりなのだろう。それは、私が十歩近づけばその分だけ遠ざかり、決して中へ入ることを許さない、遥かな風景..(40p)
「家」..親の愛情、とりわけ母親の愛情というものはいつもかなしい。いつもかなしいというのは、それがつねに『片恋』だから..(63p)
「人生」..二百年生きねばならぬとしたら何をするだろうか。延ばされた天寿に比例して青春もまた倍増されるのではないとしたら「二百年」はむしろ罰..(76p)
「革命」..「卑怯者ってのはね、きみが何をしたか、ってことで決まるんじゃなくて、きみが何を後悔してるかってことで決まるんだよ」(95p)
「涙」..人間のエゴイズムをすべてうけ入れながら、いつも言いなりになり、ときどき自然に向かって『帰ろうかな』と思っている犬のやさしさは、飼いならされた男たち、家路をいそぐパパたちにもつながるさみしさを思わせるだろう。生きるかぎり、人もまた見えない首輪をはずすことなどできない..(126p)
「女」..化粧する女はさみしがりやです。一人では生きられないから化粧をする..虚構をもたない女なんて、退屈な家政婦..(140p)
「青年」..どうしても母親の愛をのがれられない人はキリシタンの踏絵のようなつもりで一度、自分の母親に『姥捨山につれていくぞ』といってごらん..(173p)
「死」..生が終わって死がはじまるのではない。生が終われば死もまた終わってしまうのである。(177p)
「賭博」..賭博には、人生では決して味わえない敗北の味がある。(217p)
「時」..「時間はね、こうやって、大きい時計に入れて家の柱にかけとくのが一番いいんだよ。みんなで同じ時間を持つことができるから..(226p)
「笑い」..あらゆる笑いは、差別と階級性を内包して生まれる。(236p)
「幼年時代」..かくれんぼは、悲しい遊びである。かくれた子供たちと、鬼の子供とのあいだに別べつの秋が過ぎ、別べつの冬がやってくる。そして思い出だけがいつまでも、閉じこめられたまま、出てくることができずに声かわしあっているのである。『もういいかい?』『まあだだよ!』『もういいかい?』『もういいよ!』(250p)
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